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葛飾北斎ってどんな人? 偉人の魅力をライターがわかりやすく紹介

「浮世絵師と言えば葛飾北斎」「富士山や波の絵は知ってるけど、知識はそれくらい。一体どんな人だったんだろう」

今回はそんな疑問や興味を持つ人に向けて、葛飾北斎が好きなフリーライターのショウブ(@freemediwriter)がわかりやすく簡潔に、彼の魅力を紹介します。

記事の内容は、浮世絵に詳しい日本美術史学者の安村敏信さん(北斎館館長)が監修した『HOKUSAI NOTE』をベースにしつつ、「すみだ北斎美術館」(東京都墨田区)や「江戸東京博物館」(同)、「北斎館」(長野県小布施町)、「岩松院」(同)、「高井鴻山記念館」(同)で見た作品や資料、各館の学芸員などに聞いた話をもとにします。

葛飾北斎は世界に認められた偉人である一方、本当に絵のことしか頭になかった奇人でもあります。

絵師としての才能や努力、発想や技術がずば抜けていただけでなく、人間としてもすごく面白いんですよね。

その一端がうかがえるようなエピソードを盛り込んでいくので、ご参考ください。

なお、この記事はなるべく簡潔に書こうと思うので細部を割愛するところが出てきますが、記事の最下部に添付する関連ツイートを読んでいただければ、理解がより深まると思います。

葛飾北斎と親交があった浮世絵師、渓斎英泉が描いた北斎の肖像画

そもそも浮世絵とは?

  • 江戸期に流行した庶民の娯楽
  • “憂き世”が転じて“浮世”に
  • 墨一色から錦絵が主流に

北斎が描いていた「浮世絵」とはそもそも、どんなものなのでしょうか。

世情が安定した江戸時代は、中世から続く戦乱の世“憂き世”から転じて“浮世”と言われるようになったといいます。

そんな中で誕生したのが大衆向けアートの版画「浮世絵」。当初は墨一色の墨摺(すみずり)でしたが、技術の進歩によって1765年以降は多色摺の量産が可能になり、鮮やかな色合いの「錦絵」が主流になったそうです。

中でも、歌舞伎役者を描いた「役者絵」や町で話題の美人を取り上げた「美人画」は、庶民でも安く買えるブロマイドやポスターとして人気を博したといいます。

※浮世絵ができるまでの工程は下部ツイート「北斎を知る⑤」を参照

世界に認められた「HOKUSAI」

  • 日本で評価されたのは実は最近
  • 海外では早く認められていた
  • 米雑誌「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」に日本人で唯一ランクイン

葛飾北斎。実は世界的に評価されてきた人です。

ゴッホやピカソ、ドビュッシーなど数多くの芸術家に影響を与えており、ヨーロッパでは今でもとてもファンの多い作家だといいます。

「欧米の近代美術の発展は北斎なくしてありえなかった」と話す研究者も多いそう。

一方、日本国内で評価が高まったのは最近のことで、きっかけは1999年。アメリカの雑誌「ライフ」が選出した「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」に日本人では北斎が唯一ランクインしたことで、再評価の気運が高まったといいます。

2020年には日本のパスポートのデザインに北斎の代表作『冨嶽(ふがく)三十六景』のうち24作品が採用されました。

※北斎の影響を受けた芸術家の一覧はツイート「北斎・偉人奇人伝16」を、北斎に関する国内外の評価の内容とその変遷は同⑳を参照

超長生きの超多作

  • 平均寿命40歳の時代に90歳まで生きた
  • 70年の画業生活で残した作品は3万点以上

北斎は当時ではとびきり長く生きた人で、江戸期の平均寿命がおよそ40歳と言われる中、なんと90歳まで生きました

画業生活は約70年。この間に3万点以上もの作品を残したと言われています。

70年は単純計算で2万5550日。作品にはサイズの大小や質の高低がありますが、平均すると1日に1作品以上のペースで描き続けたことになります。

特定の分野や画風に固執せず、多彩に描き分けていたことも特徴で、「役者絵」や「美人画」、「風景画」のほか、「春画」や「妖怪画」「鳥瞰図」などさまざまに描出しました(詳細はツイート・北斎を知る⑥)。

葛飾北斎の美人画『酔余美人図』
「北斎館」に展示されている『肉筆画帖』の一作品(庄部撮影)
北斎が描いた斬新な春画(性交や性風俗を題材とした絵)は世界各国の芸術家に衝撃を与えたという
増え続ける弟子に向けて描かれた絵手本『北斎漫画』。上の画像ではすずめ踊りをする男性のさまざまな動作が描かれている

代表作『冨嶽三十六景』の実は

  • 還暦を過ぎた72歳ごろに発表
  • 作品数は36枚ではなく46枚
  • 知っておきたい人気の「三役」

多くの人が一度は目にしたことがあるであろう葛飾北斎の代表作『冨嶽三十六景』シリーズ。

これらの作品は北斎が還暦を過ぎた72歳あたりに刊行されたもので、同シリーズは実はタイトルとは異なり、46枚あります。

1831年ごろに出版されると瞬く間に大人気となり、急遽10枚が追加されたそうなんですね。

特に人気の高い「三役」には、『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』『凱風快晴(がいふうかいせい)』『山下白雨(さんかはくう)』が挙げられます

『冨嶽三十六景』三役の一つ『神奈川沖浪裏』
『冨嶽三十六景』三役の一つ『凱風快晴』
『冨嶽三十六景』三役の一つ『山下白雨』

ちなみに、同シリーズでも印象的な、北斎の大きな特徴と言える「美しい青」。これを表現し得たのは、当時輸入されるようになったベルリン生まれの染料「ベロ藍」の効果が大きかったそうです(詳細はツイート・北斎を知る③)。

有名なあの人たちとの関係

  • 歌川広重とはライバル関係
  • 滝沢馬琴とタッグを組む

歌川広重とはライバル関係

葛飾北斎と並んで浮世絵師として有名な歌川広重。北斎と彼は同時代に生き、ライバル関係にあったことが知られています。

16歳で画号を得た歌川広重は写生を重視し、独自に腕を磨きつつ、35歳のころに風景画『東都名所』を描きました。

しかし、同じ年の前に発表された北斎の『冨嶽三十六景』が既に一世を風靡していたため、評判は今ひとつだったそう。

広重から見ても北斎のこの作品は斬新であり、大きな刺激を受けた彼はその2年後に『東海道五拾三次』シリーズを刊行。世の注目を集めました。

北斎の『冨嶽三十六景』が生まれていなければ、広重の『東海道五拾三次』もまた世に出ていなかったかもしれませんね(詳細はツイート・北斎・偉人奇人伝⑩)。

滝沢馬琴とタッグを組む

北斎は、『南総里見八犬伝』で知られる人気戯作者・滝沢馬琴(ペンネームは曲亭馬琴)と仕事をしていたことがあります。

馬琴が考えた小説に北斎が筋に合った挿絵を描くという形で読本(よみほん、江戸期に刊行された絵入りの小説)を合作していたといい、この黄金コンビにより、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』や『新編水滸画伝』などが誕生しました。

しかしながら2人とも職人肌でケンカが絶えず、その末に絶交してしまったそう(詳細はツイート・北斎を知る⑪)

※北斎と同時代に生きた人についてはツイート「北斎を知る⑮」を参照

絵師としての性格は超ストイック

  • 技術向上へ接骨医に弟子入り
  • 80歳過ぎて「猫一匹も描けない」と泣く
  • 絵のために100歳過ぎまで生きたいと願う

技術向上のため接骨医に弟子入り

数々の名作を世に生み出した北斎ですが、絵師としての性格は超ストイック。死ぬまで「いい絵を描きたい」と技術の向上を切望し続けました。

若いころから自分の師や同門には内緒で別流派の画法を学んだり、西洋画の遠近法を積極的に取り入れたり。

「人物を描くにはまず人間の骨格を理解せねば」と、接骨医に弟子入りまでして画力を高めたといいます。

「北斎」の画号(ペンネーム)が初めて用いられた作品『亀図』の落款(らっかん、署名)=下画像=には、「師造化(しぞうか)」と押印されていますが、これは「私の師は森羅万象である」の意味。

こんな事実からも、北斎の絵師としての謙虚さやスケールの大きさがうかがい知れるのではないでしょうか。

80過ぎて「猫一匹も描けない」と泣く

そんなふうに努力を続け、大衆の人気も得た北斎ですが、晩年になっても自分の腕に満足することはありませんでした。

北斎の晩年まで共に暮らした娘の応為(絵師)は、「親父は80歳を過ぎた今まで毎日絵を描いているけど、『いまだに猫一匹すらも満足に描けない』と泣いているんだ」と北斎の門人に語っていたそうです。

絵のため100過ぎまで生きたいと願う

また、北斎75歳のころに刊行された『富嶽百景』にはこう書かれているといいます。

「わたしは、6歳のころから物の形を絵に写し取る癖があった。50歳のころから画工として認められるようになったが、取るに足らないものばかりだ。

ようやく73歳で動物や虫の骨格、草木の成長を少しは描けるようになった。

80、90歳と歳を重ね、奥義を極め、100歳を過ぎたころには、神妙の域に達するだろう

70歳を過ぎて自分を「まだまだ」と思う北斎。「絵のためにもっともっと生きたい」と願う北斎。

この文章に感じ入る人は少なくないのではないでしょうか。

※各逸話の詳細はツイート「北斎を知る⑨、⑭」「北斎・偉人奇人伝③」

サービス精神旺盛なパフォーマー

一人で黙々と絵を描き続けた北斎ですが、一方でサービス精神旺盛だったエピソードもあります。

北斎は1817年、58歳のころに名古屋を訪れ、本願寺名古屋別院で120畳分の大きさの紙を庭に敷き詰め、巨大な達磨の絵を描き上げました

その方法が圧巻でした。

墨汁で満たした酒樽に藁ぼうきを突っ込んでから、縦横無尽に紙の上を駆け回ったというのです。

今でこそ聞く手法ですが、当時はさぞ珍しかったのではないでしょうか。

北斎のパフォーマンスはこれだけではなく、東京都文京区音羽の護国寺や墨田区両国の回向院で、七福神の一つである布袋や馬などをモチーフにした巨大絵の公開制作が行われた記録も残っているといいます。

将軍にも自流を貫く大胆不敵さ

「俺は猫一匹も描けないよ…」と娘には自分の至らなさを吐露していた北斎ですが、反面、ときの将軍にも自流を貫く大胆不敵さもありました。

「この場で絵を描いてみせよ」

北斎の評判を聞きつけた将軍・徳川家斉(いえなり)は浅草の伝法院に赴いた際、北斎にこう席画を所望したといいます。

当時の絶対的な権力者である将軍の言いつけに北斎が取った行動は、なんと長い紙に藍の一本線を描くだけ

その後、脚に朱肉をつけた鶏を紙の上に歩かせ、「紅葉の名所、竜田川の風景です」と言ってのけたそうです。

北斎とともに呼ばれ、無難に山水画を描いた絵師の谷文晁(ぶんちょう)は「非常に焦った」と語ったとか。

人としては変わり者

なぜか名前を30回も変える

北斎は世界的な偉人である一方、一風変わった人でもありました。

その一つが、画号を30回も変えたこと。

よく知られている「北斎」は彼が独立を果たした1798年、39歳のころに名乗ったもので、それ以外にも時期によって「春朗」「宗理」「戴斗(たいと)」「為一(いいつ)」「卍(まんじ)」などと名乗っていたそうです。

北斎館に展示されている肉筆画

笑ったのがこれ。北斎館に展示されている肉筆画でわたしが撮影したものですが、左に「画狂老人卍」とあります。

この名を70、80代で名乗っていた北斎、チャーミングですね。

なお、北斎はお金に困ったとき、弟子に画号を売り、得た報酬を生活費に充てていたと言われています。

90回以上も引っ越しを重ねる

二つ目が、生涯で90回以上も引っ越しを重ねたこと。

1760年に本所割下水(ほんじょわりげすい)(現在の東京都墨田区亀沢)で生まれた北斎は、墨田区とその西に接する台東区内で少なくとも93回は転居を繰り返したと言われています。

なぜか。「家が散らかって片付けるのが面倒だったから」と考えられているそうなんですね。

絵を描いてばかりいた北斎は自炊などの家事をせず、食事は専ら惣菜や饅頭などでした。それらを食べては包み紙を周辺に捨てていました

やがて汚れや臭いがひどくなり、たまらず引っ越す――。これを繰り返していたというのです。

金銭管理が苦手でいつも貧乏だった?

酒も飲まず、お茶とまんじゅうばかり食べていた北斎は、着るものも住まいもいつもボロボロだったといいます。

人気絵師であるが故にギャラは他の絵師より高かったそうですが、暮らしぶりはいっこうに改善しませんでした。

金銭管理が苦手で、報奨金は封を切らずに放り出し、家に来た商人や借金取りには言われた額をそのまま払っていたそう。

乞食に間違われたことも

北斎はある日、ふらりと旅に出、上総国長須賀村(現・木更津市)にある神社の境内で絵を描いていました。

「なんだか変な男がいるぞ」

同村の名主はボロボロの服を着た北斎に気付き、その様相を不審に思って近づいたところ、北斎が描いていた富士山がなんとも美しかったそうです。

名主はいたく感動し、「ぜひうちに」と北斎を自宅に招き入れてしばらく逗留してもらった逸話も残っています。

最後に

「作品が素晴らしいだけでなく、人間存在として抜群に面白い」

記事を読み、わたしがこう思う理由を感じてくれたのならうれしいです。

葛飾北斎のことをもっと知りたい人は下のツイート一覧をご参考ください。北斎の生涯や偉人・奇人ぶりがうかがえる情報を載せています。

葛飾北斎ツイート一覧

浮世絵と北斎を知る

北斎・偉人奇人伝