高鳴る心音が気になり、寝つけなかった。
およそ10年ぶりに、貫井徳郎(ぬくい・とくろう)さんの『慟哭』(どうこく)を読んだ。
小説の面白さを知って14年、やっと再読の魅力を感じ始めた。過去に衝撃を受けた作品を読み返そうと思ったのは先月のことだ。
初読時に比べてどんでん返しの驚きは薄れたものの、ページをめくる手は、止まらなかった。
うれしかった。
わたしにとってミステリーの醍醐味は、自分の予想が、考えが、裏切られることだ。
しかしこの作品について言えば、展開とオチはおぼろげながら記憶にあった。だから、再読する対象として不向きだと思っていた。その考えも、裏切られた。
最大の魅力はすさまじい推進力
俗にキャリア組と呼ばれるエリート警察官、警視庁捜査一課長の佐伯。何らかの理由で生きる希望を失い、胸に深い穴が空いた男・松本。
2人の視点が入れ替わりながら、物語は進む。
幼い女児が誘拐され、殺される事件に佐伯は直面する。松本は「幸せを祈らせて」と声をかけてきた女との出会いにより、新興宗教にはまっていく。
最大の魅力は、小説としての圧倒的な推進力だ。
短文で叩き込まれるようにつづられた文章に、気泡のように生じる小さな疑問は置き去りにされていく。
これは伏線じゃないか? これはどういうことだ? そんな疑問を折々に感じさせながらも読者を先へ先へと促し続ける、ミステリーに重要な推進力がこの小説にはある。
佐伯と松本の場面転換も10ページ以内に収まっているため、それぞれの世界の記憶が薄れない。物語の外に逃がさない。
捜査は遅々として進まない。
妻との仲は冷め、殺された幼女と同年代の娘は自分に怯えている。佐伯に能力があったわけじゃない、血縁に恵まれたことで手にできた地位だと警察組織の人間からは思われている。
解決の糸口が見えない事件、家族・組織内での不和から佐伯は消耗していく。
一方の松本は粛々と教団での活動に励む。地位が上がった結果、教団でも一部の者にしか知られていないある儀式に参加する。
そこで松本は天啓のようにある考えに貫かれる。生きる希望(狂気)を見出し、行動を起こしていく――。
中盤以降は文字通りの一気読み
序盤から中盤にかけて物語はなだらかに進む。
しかしながら2人の焦燥感、切迫感が徐々に高まり、ボルテージが上がる250ページ以降、手が止まらなくなる。
「息苦しい。佐伯は訴えた」
わたしもまさにそんな状態だった。
早く早くと結論を急いだ。250ページに差しかかってから3時間、最後の400ページ弱まで休むことなく読み続けた。
「人は自分の信じたいことだけを信じるのです」
終盤にある人物が話す。
小説を読み終えると、この言葉が登場人物の感情だけではなく、小説全体を包含したテーマだったことがわかる。
人物の設定、展開にいくつかの疑問は残った。短い間だったが、新聞社で記者をしていた身としては、描かれる報道の世界に違和感もあった。
しかしそれらを野暮と思うくらいに、この小説は、読ませる。
慟哭は筆者が25歳の頃に書いたデビュー作。
どんな文章が読み手を惹きつけるか、改めて考えさせられた。フリーライターやフリーライターを志望する人も参考になると思う。
「慟哭」=「悲しみのために、声をあげて激しく泣くこと」(大辞林)
そんな場面はないが、佐伯の、松本の内なる慟哭が聞こえてくるようで、深夜に読み終えた後も動悸が止まなかった。
小説家の北村薫さんは「書き振りは練達、読み終えてみれば仰天」とメッセージを寄せている。
(フリーライター庄部)
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